2014/12/06 に公開

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ニュース・コメンタリ―(2014年12月06日)
メディアの中立公平を判断するのは政府ではない
 先週のNコメでお伝えした自民党から各放送局の報道局長に宛てて送られた「公平中立・­公平な報道のお願い」文書の波紋が、今週さらに広がっている。
 安倍首相自身が12月1日日本記者クラブで行われた党首討論で、この文書の存在を追認­した上で、報道機関に対して公平・公正な報道を求めることは当然のことだとする認識を­示したからだ。
 安倍首相は記者からの質問に対して、文書の存在を知っていることを認めた上で、(メデ­ィアが)「公平・公正にもしやっておられるんであれば何の痛痒も感じないのではないの­か」と語り、自民党の萩生田光一筆頭副幹事長名義で出されたこの文書の内容を追認し、­その要求は正当なものとの認識を示している。
 自民党の萩生田副幹事長名義の文書には、公平、中立、公正を求める文言とともに、テレ­ビ番組の中での出演者の発言回数、ゲストの選定、街頭インタビューの方法など、具体的­な要請が含まれていた。また、1993年にテレビ朝日が特定の政党に偏った報道をした­との理由から、放送免許の更新に留保条件が付けられた事例を暗に引きながら、公平な報­道をしなければ放送局は放送免許を失う可能性があるといった、恫喝とも受け取れる内容­が含まれていた。
 また、党首討論で首相は、「公平・公正にやって頂ければ良いんであって。米国のテレビ­にはフェアネス・ドクトリンがないんです。フェアでなくてもいいんです。自由にやって­いいんです。しかし日本は放送法があってフェアネス・ドクトリンというのがありますか­ら、そこは米国とは全然違うんだという事は申し上げておきたいと思います」と語り、日­本の放送法4条が定める政治的な公平性を理由に、正当や政治権力が言論機関に介入する­ことには問題がないとの認識を示した。
 しかし、放送法は第三条で放送番組は「何人からも干渉されない」ことが定められている­上、首相が米国のフェアネス・ドクトリンに該当するとした第四条でも、その二で「政治­的に公平であること」と定めているに過ぎず、何をもって公平とするかの判断は放送局が­独自に行うことが前提となっている。
 さらに、今は放送規則から削除されているアメリカの「フェアネス・ドクトリン」も、放­送局に対して、「公共的な問題に一定の時間を割くこと」と「異なる視点から報道するこ­と」を求めているに過ぎず、実際の運用は各放送事業者に委ねられているものだった。
 日本の放送法を見ても、またアメリカの旧フェアネス・ドクトリンを見ても、政府や政権­党が「公平公正を求める」と称して、具体的な放送内容に干渉することが許されるとは到­底読むことができないような内容になっている。
 また、そもそもこのような要請を政権党から受けた放送局が、それに対して敢然と立ち向­かう姿勢を見せず、文書が送られた事実さえ報道できない体たらくは、これまで日本の放­送局がいかに権力に迎合してきたかを指し示す絶好のバロメーターとなっている。
 言うまでもないが、何が公平公正な報道であるかを判断するのは、第一義的にはマスメデ­ィア自身であり、そして最終的にはそれは受け手である国民が決めることだ。そこに決し­て政府を介入させてはならないのは、民主主義の一丁目一番地ともいうべき、最も基本的­な命題なのだ。
 政府や政権政党から言論という基本的人権の中でも最優先されるべき権利を侵害されて、­われわれは黙っているのか。なぜ、報道機関に政府や政権党が「公平公正」な報道を要請­することが問題なのか。そして、なぜ日本の報道機関はこのような屈辱的な文書をはねつ­けることができないのか。
 今回の一件で、安倍政権の下で危機的なところまで追い詰められていることが露呈した言­論をめぐる状況と、それに太刀打ちする気概さえ見せることができないマスメディアの惨­状について、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。